――午前中から、落ち着かない。
デスクで見積書を作成していた僕の肩に触れる、真帆の冷たい指先。そのままスーツ越しにブラの肩紐を摘まれる。
「レンくん、これ何?」
「ひゃっ!……ダメだって……!」
喉がひくつき、声が上ずった。誰かに聞かれていないかと脈が早くなる。
「ふふ、反応かわいいね」
真帆はクスクス笑って離れていく。引っ張られてずれたブラの肩紐を、周囲にバレない様にこっそりと直した。
◆
トイレに行く時も気が休まらない。もし隣に誰か立たれたら、赤い下着が見えてしまう。
結局、個室に閉じこもるしかなかった。
手を洗い鏡に映る自分の顔は赤く火照り、思わずため息がこぼれる。
男子トイレから出ると、待ち構えていたように茜が声を掛けてきた。
「あれ~、レンさん、今日は男子トイレなんですか~?」
わざと大きな声を張り上げる。その場にいた社員数名がこちらを振り返った。
「ちょっ!そんなの当たり前だよ!いつも男子トイレだよ」
必死に返す自分の声が震え、視線が一斉に刺さる。頬が熱く、背筋を冷たい汗がつたった。
◆
昼休憩が近づく頃、瑠衣に呼び出される。
「レンくん、ちょっと1階の資料室に来て」
その声色は穏やかなのに、相変わらず逆らえない力があった。
資料室に入ると、真帆と茜がすでに待っていた。ひんやりした空気に紙の匂いが混じる。普段は人が立ち寄る事が無い、過去の資料が眠っている部屋。
「レンくん、忙しい時に悪いんだけど、お昼買ってきてほしいの」
「え……お昼ご飯ですか?」
「もちろん、これに着替えてね」
差し出されたのは“あの”経理の制服。グレーのベストとネイビーのタイトスカート、土日で洗ってくれたのか、ほんのり甘い柔軟剤の匂いが香る白いブラウス。そして茜のお古の黒のパンストが添えられている。
「いやいや、さすがに日中は無理ですよ!会社の人に見られたら……!」
「裏口から出れば大丈夫。コンビニにお弁当買いに行くだけ。ほんの10分だから。ほら、これ持って」
渡されたのは、ピンク色の長財布。本革で艶があり、高級感があるが、まさしく女子の持ち物そのものだ。
「ちょっと…本当に勘弁して下さい……」
「レンさん、似合ってるから誰も男だなんて思いませんよ」
「それに……私たちに逆らえないこと、レンくんが一番よく分かってるよね?」
その笑顔と射抜くような視線に押し込まれるように、僕はスーツのボタンを外した。赤い下着があらわになり、羞恥の熱が胸元を焼く。
Lサイズのブラウスに袖を通し、裾を整える。グレーのベストを重ね、青いリボンを結ぶ。ネイビーのスカートを腰まで上げ、最後に光沢を帯びた黒いパンストを足に滑らせると、太陽の光を反射して肌が艶めいて見えた。
そこにはまさしく「女子社員」が立っていた。肩の力を抜いたつもりなのに、首筋から背中にかけて汗がじわりと滲んでいる。
「今日はメイクをする時間が無いから、すっぴんだね」
「じゃ、元気に行ってらっしゃーい!」
「うう……」
息が詰まる。足がすくむ。
ピンクの長財布を腕にはさみ、裏口のドアノブに手をかけるしかなかった。
◆
扉を開けると、外の空気が一気に肺に流れ込んだ。昼休み前の街は人通りが多く、視界の端に映る誰もがこちらを見ているように感じる。スカートの裾を押さえながら歩くだけで、全身が視線にさらされている気がして、心臓が痛いほどに鳴った。
「だ、大丈夫……ただの買い出し……。すぐ終わるから……」
自分に言い聞かせる。コンビニまでの数十メートルが果てしなく遠く感じられた。
店内。
ドアの電子音が鳴った瞬間、空気が変わったように思えた。弁当コーナーで手を伸ばす指先が妙に震える。スカートの裾が誰かの視界に入っていないか気になって、背中が熱い。
視線を合わせないようにレジへ。
「……温めますか?」
店員の声。
僕は咄嗟に、女の子らしい高さを意識して答える。
「……お、お願いします」
自分の声がはっきりと響いた瞬間、耳まで真っ赤になる。声の余韻が店内に残っている気がして、喉が焼けつくようだった。
本当に、バレてない……?レジ対応をした店員、そして後ろに並んでいるサラリーマンの視線が刺さる。呼吸が浅くなって、指先が冷えていく。
レシートを受け取る手が汗ばんで、うまく掴めない。ビニール袋の持ち手がひっかかって、カサカサと音を立てるたび、全員の耳がそこに向いている気がした。
買った弁当の袋を抱えながら店を出る。
心臓が喉に張りついて、鼓動がうるさいほどだ。足音がやけに響いて、すれ違う人が振り返ったように見える。
俺はそのまま、足を重くしながら資料室に戻っていった。冷たい空気に触れた肌はまだ汗ばんでいて、スカートの裾がまとわりつく。
渡された弁当を3人に差し出すと、真帆が「ありがと、レンちゃん」とわざとらしく笑った。その一言が胸を締めつけ、羞恥を塗り重ねていった。
◆
逃げるように自分のデスクへ戻る。今日は外食する気分にはなれない。机の一番下の引き出しから、残業用に置いてあったカップラーメンを取り出し、お湯を注いで簡単に昼を済ませた。
もうすぐ昼休みが終わる。周囲の席にも社員がちらほら戻り始めていた。その時だった――。
「レンさん、昼休みどこに行ってました?」
営業部の後輩、小山千尋が声を掛けてきた。
体中から血の気が引いた。なんでそんな事を聞くんだーー。
【6章へつづく…】
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