朝。凜のアパートの玄関の前で、最後のチェックをしていた。
ピンクの千鳥柄のワンピース。
淡いベージュのカーディガンを羽織ると、全体がやわらかくまとまる。
今回は地雷系ではなく“甘可愛い”ファッション。
凜が通販でこっそり買っていたコーデだった。
「ね、可愛いよ。今日も」
背後から覗き込んだ凜が、僕のウィッグを指で整える。
その仕草に、胸がぎゅっとなる。
外に出ると、朝の空気が少し冷たい。
大学までの道を並んで歩く間、僕は視線を落としたままだ。
スカートがひらりと揺れるたび、誰かに見られている気がして息が詰まる。
凜はそんな僕の手を取って、軽く指を絡めた。
「大丈夫。緊張しなくていいよ」
その言葉は、慰めのようで――命令にも聞こえた。
手のひらの温かさが、支配と安心を同時に染み込ませてくる。
彼の隣で歩く“彼女”としての一日が、また始まる。
◆
講義室に入ると、凜の友人たちがもう集まっていた。
笑い声と香水の匂いが混ざる輪の中に、僕は小さく息をのむ。
「おはよー。ちょっと紹介したい子がいるの」
凜が、当然のように僕の背に手を添える。
「啓斗。ついこの間まで彼氏だった。今は彼女に変わったの」
一瞬、時間が止まった。
けれど次の瞬間、ざわめきが弾ける。
「えっ、彼女って……啓斗くん!?」
「男の子やめちゃったの!?」
「でも似合ってるじゃん!」
「てか、可愛い〜!」
驚きと笑い、そしてほんの少しの好奇心が、波のように広がっていく。
誰も否定しない。誰も疑わない。
――それは、彼女の凜がそう言うのだから“そうなのだ”という、優しい同調の空気が浸透していくのを感じた。
僕はうまく笑うしかなかった。
「……僕がこんな格好……変だよね」
と口にしても、
「変じゃないよ」
「今どき普通だし」
「凜がいいならいいじゃん」
――まるで世界のほうが、僕の“女の子”を肯定しているみたいだった。
凜は僕の肩にそっと手を置く。
その瞬間、周囲の視線が“彼女”としての僕を固定した気がした。
演技のはずなのに、息ができないほど現実的で、
でも同時に少しだけ、安心してしまう。
凜の隣で笑うたびに、
“否定”の言葉が喉の奥で溶けていった。
◆
昼休み。学食の奥のテーブル。
僕と凜は女子が集まる輪の中に呼ばれた。
「ねえ啓斗ちゃん、そのカーディガン可愛い!」
凜の友達、白のブラウスの赤いスカートを穿いた“真白”が目を丸くして言う。
僕は思わずスカートの裾を押さえた。
「……凜が、選んでくれて」
そう答えると、真白はにこっと笑った。
「やっぱり!凜、見る目あるもんね。ねぇ、今度三人で下着見に行かない?新作出てるし」
「えっ……」
フォークを落としかけた僕を見て、女子たちがくすくす笑う。
「いいじゃん、行ってきなよ」
「そんなに驚かなくても〜。今どき、友達同士で行くよ?」
「サイズとか測って貰えるからね。通販よりお店の方が絶対いいって」
凜は軽く笑って、僕の手を取った。
「行こうよ、啓斗。真白なら私も安心だしいいでしょ?」
彼女の指が僕の指を絡める。
「いつまでも私のお古じゃダメでしょ」
耳元で小さく囁いた。
「……う、うん。じゃあ……」
その言葉が出た瞬間、
まわりの女子は嬉しそうに「良かったね」と声を上げた。
メイク、ファッション、ネイル。
話題が次々と移るたび、僕の中の“男子”の輪郭がかすんでいく。
笑いながら相槌を打つ自分の声が、少し高く、少し柔らかく響く。
テーブル越しに見た凜の笑顔は穏やかで――
まるで僕が“彼女”であることを、みんなに誇っているみたいだった。
◆
昼食のあと。
なんだか胸が苦しくて、僕は凜に付き添ってもらい、多目的トイレに入った。
鏡の前に立つと、息が止まる。
カーディガンの袖を伸ばし、萌え袖にする。
ワンピースの襟元から覗く鎖骨。
ロングのウィッグが頬を撫で、唇には、朝つけた淡いピンクのグロス。
――違和感が、ない。
その事実に、心臓がきゅっと縮む。
恐怖と、熱と、奇妙な安心が同時に押し寄せる。
「啓斗」
背後から、凜の声。
振り返る間もなく、背中に彼の腕が回った。
鏡越しに見える、二人の姿。
まるで“女の子同士”そのもの。
「いきなり女子の輪の中に入ったから、びっくりしちゃったかな。もう誰も、啓斗を“男”だなんて思ってないよ」
脳に直接語りかけられるような、甘く優しい声に、僕は落ちていく。
否定しようとした唇が、何も言えず震えた。
凜の手のひらの温かさが、
“彼女”としての僕を確かに形作っていく。
もう僕は、“凜と一緒にいられるなら彼女でもいい”――
そう思ってしまった。自身の女の子を肯定してしまった。
甘い崩壊の音が、胸の奥でそっと鳴った。
――第8話へ続く。