「じゃ、立って。歩き方、見せてもらおうか」
椅子の背から背筋を伸ばすと、制服の生地がわずかに軋んだ。いつものように立ち上がろうとすると、タイトスカートの裾がぴんと張り、太ももの動きが制限される。意識せずとも内股になる。
瑠衣が一歩前に出た。
「じゃあ少し、歩いてみて。ちゃんと、“女の子”としてね」
――女の子として。
その言葉が、心の奥にひっかかる。無理やりねじ込ませたヒールのかかとが床を打つ。ゆっくりと、膝を意識しながら足を前に出す。
コツン、コツン、コツン。
細かく響く音が、静まり返ったオフィスにやけに大きく鳴り響く。
「そうそう、つま先をまっすぐ前に出して。あと、膝が離れすぎないようにね」
「もっとお尻キュッて締めて! 歩幅が大きすぎると男っぽくなるから」
左右に立つ女子社員たち――瑠衣、真帆、茜――が、歩くたびに細かく口を出してくる。
言われるままに体に力を入れ、足を出す。そのたびに、ストッキングが太ももを撫でてくる。
「……レンさん、今のすごくいい! 女子っぽい!」
茜がぱちぱちと拍手をする。
◆
「ちょっと声も練習してみましょうか? “お疲れ様でーす”って」
「……え?」
「普通に、今の格好で、誰かに言う時みたいに」
目の前には、楽しそうな3人。だけど、僕の喉は乾いたままで、音が出ない。
「……お、お疲れさまです……」
「ダメダメ。声が低すぎ。もう一回、今度は優しく、吐息混じりに。女の子の声は“か弱く丸い”の」
――吐息混じり? 丸い?訳がわからない。
「すぅ……お疲れ様でーす……」
絞り出した声は、どこか自分のものじゃなかった。高くて、震えていて、でも……少しだけ、柔らかかった。
「そう、それ! 今のすっごく可愛い。ね、真帆さん?」
「うん。レンくん、目がさっきよりも優しくなったよ。だんだん中身も“女子社員”になってきたんじゃない?」
冗談めいた口調なのに、背筋が凍った。
◆
「よし、じゃあ……次が最後の課題ね」
瑠衣がニッコリと笑った。
「“借り”の、最後の三割。これが済めば、もう全部終わり」
そう言って、社内の廊下の真ん中あたりを指さす。
女子トイレの扉。
「えっ、まさか……」
「もちろん、そのまま行ってきて。制服も化粧もヒールも全部そのまま。誰もいない深夜の社内だから、安心して」
「ちょ、ちょっと待って――」
「これだけやればもう終わりなのに。あれっ、もしかして女の子の恰好、気に入っちゃった?」
真帆がいやらしげに見つめる。
「トイレを済ませて戻ってくるだけ。それで“借り”は完済なんだよ?」
その言葉に、喉がカラカラになる。胸元に貼りついたブラウスが、急に暑苦しくなる。
さっさと行って終わらせるしかない。
◆
ヒールの音が廊下に響く。
誰もいないオフィス。非常灯の緑色だけが、ぼんやりと床に影を落としている。
手を伸ばし、女子トイレの扉に指をかける。冷たい金属の感触が、指先に伝わる。
胸がドクンと跳ねる。
中は、男子トイレと大きく変わらない。白いタイル、壁に並ぶ鏡。違うのは、小便器がなく、扉付きの個室が並んでいること。
その一番手前の個室に、僕は一歩足を踏み入れた。
背後で扉が静かに閉まる。
――誰もいないのに、誰かに見られているような気がする。
震える手でスカートをまくり、ストッキングを下ろす。手のひらが汗で濡れている。
ほんの数十秒。でも、永遠のようだった。
だけど、個室でひとりきり。
さっきまでのざわつきが嘘みたいに、心がすこしだけ静まっていた。
個室を出て、手を洗いながら顔を上げた。鏡に映る自分の顔は、まだ“女の子”のままだったけれど、どこか他人事みたいに見えた。
これでこの格好も、終わりだ。
制服のスカートの裾を直し、ため息をひとつ。
女子トイレのドアに手をかけた。
◆
「おかえり、レンくん」
廊下へ出た瞬間、2人が待ち構えていた。
瑠衣は腕を組んでにやりと笑い、真帆も髪をいじりながらこちらを見ている。
カシャ。
カシャ。
無機質なシャッター音が、薄暗い静けさを鋭く引き裂いた。
振り返ると、反対側では茜が無言でスマホを構えていた。
「えー! レンさん、女子の制服で女子トイレから出てくるなんて!」
「あらー、これが社内に出まわったら、大問題だよ? レンくん、懲戒解雇されちゃうかも……」
茜と真帆がはやし立てる。
「ちょ、やめてってば……!」
思わず声が裏返る。
その時だった。
「でも安心して。私たちがちゃんと守ってあげる。その代わり――」
瑠衣が笑顔で語る。
「これからは、こっそり“女の子”として過ごしてもらうね」
もう逆らえない。――何も、言えなかった。
【4章へつづく…】
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