──ああ、これはうまくいく。
昼休み、真帆と茜にそう言ったのは私だった。
「先週の伝票ミスの件を口実にすれば大丈夫だよ」
書類を片手に切り出すと、真帆はすぐに笑った。あの子は私の考えていることの先を察するのが早い。
茜はというと、口元を押さえて「面白そうですね」と小さく頷く。どこまで理解しているのかは怪しいけど、こういうときの茜は無邪気に見えて、相手を追い詰める天性の何かを持っている。
制服はロッカーに予備がある。しかもサイズはL、男性でも少しタイトに着られるくらい。
部長にも“社内広報のジェンダー配慮事例”という建前で話を通してある。
ピースはすべて揃っている。あとはタイミングだけ。
◆
金曜の夜。残業で残っていたのは私たち経理三人と、営業部の高橋 蓮――レンくんだけだった。
経理の締めが終わらず、私と真帆は月末の伝票の最終確認、茜はデータ入力。レンくんは営業の案件資料を抱えてパソコンに向かっていた。
時計が21時を少し回った頃、彼が机の上のファイルを閉じ、立ち上がった。その瞬間を逃さず、私は制服一式を抱えて近づいた。
「レンくん、もう帰るの?ちょっと面白いことしよ」
あの顔。困った時に眉がほんの少し下がる癖は、入社してから何度も見てきたけど、やっぱり可愛い。
彼の視線が、私と真帆が手にしているスカートとブラウスに止まった。一瞬で「危険」と判断したのがわかる。
「この女子の制服、着てくれない?」
言葉は軽く、冗談みたいに。でも視線は逃がさないように。
真帆も茜もすぐに回り込み、出口とデスクの間をふさぐ。
タイムカードは茜の手の中。通用口の鍵はカチリと音を立てて施錠済み。
もちろん防犯上は普通のこと。でもこの状況で鍵がかかる音を聞かされれば、心理的な“帰れなさ”は倍増する。
「ほら、先週のレンくんの伝票ミス、覚えてるよね? 経理、残業地獄だったんだから~」
軽い口調に混ぜた釘。彼はきっと、これが断りづらい理由のひとつになることをわかっている。
◆
最初は冗談だと思ったらしい。私は“ブラウスとベスト”を差し出す。布を受け取った瞬間、彼の指先が小刻みに震えていた。
そうだよね。今から女子社員の前で女装するんだもんね。
「ボタンは下から?上から?」
茜が茶化し、レンくんは真面目に返す。こういうとき、冗談で流せないのが彼の人柄だ。
私はそのやり取りを横目で見ながら、襟元が首に沿って形作られていく様子をじっと観察する。
白いブラウスは、蛍光灯の下で微かに光沢を帯び、レンくんの肌色をやわらかく拾う。
袖を通して肩がぴったりと合う。サイズも問題なさそうだ。
◆
スカートを穿く時のためらいも予想通りだった。
腰骨の位置を軽く押さえて、「膝はそろえて、腰はここ」と指示すると、彼の呼吸が一瞬止まる。
太ももに裏地のサテンが触れた瞬間、視線が床に落ちる。羞恥で耳が真っ赤に染まっていた。
パンストは茜の提案。
「それ、私が今日履いてたやつなんですけど、レンさんにあげますね」
あの子の無邪気な意地悪は計算じゃないから、なおさら効く。
布が膝を越え、太ももまで覆っていく様子を、私はデスクの角から見守る。
何も言わない。声を掛けるよりも黙って見ていた方が恥ずかしく感じるから……。
◆
化粧に移ると、レンくんはもう鏡から目を逸らさなくなっていた。
ファンデで肌が均一になり、ハイライトで光が差す。眉骨の出っ張りを意識して抑えたメイクが、顔立ちの硬さを削っていく。
アイメイクで瞳が縦にも横にも広がる瞬間、私は胸の奥で小さく笑う。
真帆のアイライン、茜のチーク、私のマスカラ。
三人で仕上げていくうちに、レンくんの目が、さっきまでとは別人みたいに柔らかくなっていく。
仕上げのリップは私が塗った。
ベリー系の色が唇を染め、上唇の山にグロスを一滴。
光がそこに留まり、彼の呼吸が浅くなるのがわかる。
「経理の制服、この中でいちばん似合ってるのはレンくんだね。これで借りは七割返済ってとこかな」
にやりと笑いながら、鏡越しに視線を絡める。
残り三割は、”終わらない三割”なんだけどね。
【2章へつづく…】
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